krautraum

director's note

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会場撮影: 椎木静寧

 

戸田祥子が数年前からライフワークとして撮りためてきたという千枚以上におよぶ写真の中から本展のために選びとられた57枚は、作品が作品として形をなす以前の、目の前の光景を瞬時にどうにか描き留めたスケッチのようでもあり、計算された構図の中にも直感と衝動を匂わせる、彼女の創作行為における源泉であるかのようにも見えた。そもそも彼女の手から生まれるものは、ずいぶん前からその場に腰を落ち着けているような佇まいで展示空間におさまっていたり、あるいは「作品」として名前が与えられた後もまた別の機会には微かに形を変えて姿を現すことで、その成り立ちや制作における始まりと終わりの時間軸を曖昧なものにしてゆく。そこには時間とともに生成し朽ちてゆく物ごとの変化に対して、柔軟で寛容であろうとする彼女の作家としての態度表明と同時に、一人の人間としての身のこなしが示されているような気がしている。

 

展覧会冒頭に展示された57枚の写真のスライドショーに写る被写体の多くは、引っ越して間もない新居の窓から眺めた景色や、ごくたまに訪れる隣町、展覧会に向けた滞在制作先の地域で撮影したものだという。毎日の見慣れた場所でもなく、旅人が稀有なまなざしを向ける未知の場所でもない中間的な観察地点に立つ時の彼女は、いわば何にも属していない。

風景は当人とその場所との関係によって見方を変える。ひとつの場所に定住することは、あらゆる行為や時間配分を習慣化することで日々視界に入れるものを自ずと限定し、その反面で、普段は気にも留めないものが旅人の視界の中では極端に前面化し強調されるということはよくある。双方による温度差の中間で可能なかぎりの均衡状態を保ち、親密さや昂る未知への好奇心とは距離を置いた地点から切り取られたものは、切なさや可笑しみや滑稽さを孕んだスナップショットとは位置づけがたく、どんな感情にも依らない、しかしどんな感情も介在することのできる余白を残した風景写真となっている。

 

隣室はこれらの写真から派生する立体、映像、ドローイングによって展開する。

戸田の作品にこれまでも頻繁に用いられてきたメッシュや紐などの布製の素材は、伸縮やほつれといった形態の変化をいとわない彼女の手法を象徴するものでもある。視界をさえぎるようなメッシュの編み目や、か弱い結び目によってかろうじて一本に繋がれる紐が描く流線は、写真やドローイングの前方に吹きだまりのようにしてあふれ出す。写真が写真となったときに前後の文脈と時間から切り離されこぼれ落ちるもの、カメラを向けたときには見えていなかったもの、肌に感じた温度や光の具合、そうした風景の中に無数に漂う何かを包み込み、視線とその先にある対象とのあいだに渦まく混沌を、ただ混沌としたままその場に放ち、見るということの脆さを可視化する。それは自らの視線が捉えることができるものの限界と曖昧さを、彼女自身が認識するために絶えず行う、ひとつの確認作業といえるのかもしれない。

 

立体物にくらべ、ドローイングと映像はより直接的に彼女の身体の動きを想像させる。

ドローイングを描くには、写真のスライドショーを壁に投影した上に紙をあて、下地となる写真から無差別に線を見出しトレースする。彼女が言うところの “分け目”の存在を認め、選ばれた一つ一つの線をたしかなものにしていくための風景の読み直しとして、遠近感を消失させ前景も後景もないまぜにしながら幾重にも線が交錯する。

映像においては、モニター画面に映した画像にあえて激しい手ぶれを生じさせながらビデオカメラを向ける。撮影した風景を画面越しに再撮影し、鑑賞者はそれをさらに壁に投影されたものを見ることになる。多重的な構造のもとで映像をみることは私たちにとっても日常的にそう稀なことではなく、誰かの視点を通過していることを忘れてしまうくらいに当たり前にそれらは日々享受されてゆく。映像の中に積極的に手ぶれを取り入れることは、手の動きと出来上がる映像の画面の揺らぎを同期させ、たしかに自分が見ている、その経験と認識をひたすらに反復しているようでもある。

撮影中の手のゆらぎ、トレースといえどペンを走らせればどこまでも滲み出る手癖が示すように、これらの手作業に伴う触感が、風景に対峙するための彼女の経験をさらに後押しする。

 

こうして戸田と風景との関係はいくつかの段階を重ねていくことによって有機的に構築されてゆく。彼女にとってはカメラを向けることや線を描くこと、素材とたわむれることもすべて、日々の終わりのない探求であり生活であり、作品は静止した時間のなかに留まることはあり得ない。そのことをまるで示唆しているような出来事として、本展の準備中に彼女が新しい命を授かり、会期が終了したほんの数週間後に出産したことは、とても偶然とは言いがたい。日々の創作と連動するように身体の奥深くではもうひとつの有機体が生成され、あのとき作家としても一人の人間としても、ひとつの過渡期をたしかに迎えていたのだと回想すると、ひそやかに喜びを感じるのだ。

 

2017.6.18