krautraum

director's note

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会場撮影: 椎木静寧

 

先日、クラウトラウムではアーティストの金川晋吾さんによる「日記を読む会」がひらかれた。金川さんも含めたそこにいる全員が順番に自分の日記を声に出して読み、最後は録音したデータを参加者のあいだで共有した。日記文学というジャンルがあるように必ずしも日記という媒体は閉じたものではないけれど、個人的には、人に見せる前提のなかった文章を声に出して他者へ届ける行為は特異な経験だったように思う。「日記を読む会」が一体何だったのかはすぐに言葉にできるものではないけれど、この経験について反芻しながらかれこれ2年近く前になる仲田絵美さんの個展のことを思い出している。

 

携帯電話で写真を撮るようになってから、かつてのフィルムカメラのように最後の1枚を惜しんだり被写体を厳選したりするあの振る舞いはほとんど姿を消してしまった。惜しみなくシャッターを切り画面の中に整列する写真データは、大切なものも失敗も、そのどちらでもないものもまるで等価であるかのように保存される。その中から仲田さんは身に覚えのないほど印象の薄い写真や、誤まってシャッターを切ってしまったミスショットをあえて拾い上げ、その隣りでは日記を装ったような当時の出来事や感情が綴られていった。収集日に捨てそびれたゴミ袋や泥酔した果てにありついたラーメン、倉庫作業のアルバイト先で隠れ家のようにして過ごした憩いの屋上。作中の、「いつの間にか四年が経っていた。」という一節が示唆するように、あえて口にするまでもないような出来事の連なりが、気づくと過去の時間の多くを占めていたりするものだ。

そうしたささやかな日常の断片に光を当てた、とはここで言い切ってしまわずに、この個人的な出来事の記述ということについて、もう少し考えをめぐらせてみたい。

 

もう一度、先日の「日記を読む会」を思い出す。いつの日記を読むか、その選択はある程度は各自に委ねられていた。いつのものでも良い、と言われていても当人からすると何でもよいわけではないから不思議なものだ。他者の前で声に出して読むための日記を選ぶ。その行為がどこか滑稽なように思えて、会が終わったあとに参加者どうしで振り返りながら笑い合った。

仲田さんの携帯電話の中にもきっと膨大な数の写真があったはずで、ミスショットといえど無作為に集められたわけではなく、すべてはフレームに飾るために選ばれたものだ。思い出したくないような時期のことであったかもしれないし、あるいは思い出そうとしてもとりわけ語ることのないような一瞬だったかもしれない。あえて選ばれたのか、必然だったのか。おそらく写真を選ぶところから、過去の自分を肯定するための編集作業のようなものがすでに始まっていて、声に出して読む日記を選ぶように、それはきっと本人にしか分からない指標のもとにあるのだと思う。

 

小説のような文体が過去の自分を再解釈し、物語の主人公のように仕立て上げる。しかし何か背伸びをしたりするわけでもなく、オチもなく、怠惰な日常や鬱屈とした過去の自分に忠実なようにすら見えた。撮影した時間や前後に保存されている写真を記憶のたよりに可能な限り思い出しながら綴ったというテキストは、鑑賞者に向けて可笑しみのエッセンスも加味する。過去の書き替えと整理を交互にするような作業。かつての自分をほほえましく認めるような仕草も含めて共感することができる。日付を書き、言葉にすることでたちまち「その時あったこと」が形になる。それはシャッターを切れば否応無しに像を残す写真の性質にもとても似ているような気がする。

 

展覧会を一巡した最後には、それまでの写真とは明らかに毛色の違う一枚が掛けられた。仲田さんの姪にあたる小さな女の子は、水族館でアシカのショーを見ながら屈託なく笑い、カメラの存在にまったく気づいていない。展示されているのはその時の写真がフレームに入り実家の玄関に飾られている様子を収めた一枚だ。皮肉なほど思いもよらない一瞬を切り取ってしまう一方で、どんな加工もほどこす必要のない純粋無垢な笑顔を残すこともできる。写真のもつその二律背反的な性格を見つめる態度は置き去りにされてはいない。

写真を写真に撮る、という方法はこれまでも仲田さんの作品ではたびたび登場している。じかにはもう触れることのできない当時の被写体の姿を、物としての写真の中に託しているともいえるだろうか。写真がそこにいることをたしかめるようにカメラを向ける。印画紙に焼かれた一枚の写真を見つめる。データ写真ならではの特性に着目した作品のそばに、仲田さんにとっての原初的な写真との付き合い方が共にある。

 

むすびとして最後に補足したいのは、ここまでこの場所で行ってきた一連の活動が、表現を通して個人のパーソナルな部分をひらく場として何らか機能できているのでは、と最近になって少しずつ実感しはじめている、ということだ。明らかな公共の場でないことで、秘密基地にたとえられたり、内緒話を聞くような感覚、といった感想をたびたび耳にしてきた。場所柄、閉じることのほうが多く、とても密やかな活動に見えることも多いと思う。意識しているのは、ある程度は閉じ、ある程度をひらく、ということだ。そのバランスはとても難しく、時には誤ってしまうこともあるかもしれない。しかし人それぞれに語りたくないことや、語られる前に何らかの形で消えてしまうこともある中で、語ることを選ばれたものに耳を傾ける所作は、今後活動していく上でも大切なことのように思っている。