krautraum

director's note

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会場撮影: 椎木静寧

 

箕輪亜希子の展覧会を二ヶ月後に控えていた昨年九月、世間は安全保障関連法案の審議をめぐり、国会議事堂周辺をはじめ各地で反対運動が多発していた激動の只中にあった。

平穏に営まれる日々の習慣、あたたかい食事、そしてこれから紡がれる展覧会という小さな営みと、混迷する社会の状況との近いようで遠い、隔絶した距離に対して抱えていた戸惑いや違和感は、当時、筆者と作家との間でひそやかに共有されていたように思う。そうした互いの心境と温度が、のちにそのまま彼女の作品の中へ投影されていくこととなった。

 

本展によせて箕輪は、平日の静寂な国会議事堂周辺の路上で物を拾得することを始点とした。赤い紐、シール、鳥の羽、チラシ、石、陶器の欠片、眼鏡のレンズ、レシート。週末のデモ活動の痕跡を漂わせる物、あるいは何処からか風で飛ばされてきたのだろう弱々しく路上に横たわる物。一方では街路樹の銀杏を収穫する老人、歩道を渡る小学生の列、パトロール中の警察官。路上での記録映像は、一つの環境の中に凝縮される各々の時間を並列に、淡々とすくい上げる。

 

拾得物は展覧会がはじまる数週間前の会場に持ち込まれ、台所のシンクや洗面所の床、本棚の上など室内の各所に配置し、撮影された。被写体は一見空間にとけ込むようでありつつ、わずかな違和感と居心地の悪さを醸し出し、微妙な空気を漂わせてもいた。

おそらく映像には、撮影者しか決して経験することのない何かが存在する。

箕輪の場合、緻密な構成、演出の結果と、偶然映り込んでしまったものや介在してしまった音、その場に在る全てを包含した時間が、彼女と被写体とのあいだで取り交わされる単独の経験となる。微妙な空気とは、そうした時間のなかで互いの関係から生じた、小さな隔たりだったのかもしれない。

 

映像という媒体が今日の私たちの生活とあまりにも親密な関係を結んでいるがゆえに、映像でしか知らない世界や目の前にある社会との距離のはかり方に戸惑いを覚えることは少なくない。

映像の中にだけ在る、何にも代え難い彼女の経験をモニター越しに見つめる、その一方で、床に散らばる実物を目の前に、鑑賞者が自らの経験をつくることをこの展覧会は果たして可能にしただろうか。

 

展覧会の数日前、展示室内にあるやや大きめの窓を塞ぐための白い壁を立てた。

映像の中で垣間見る窓は、この壁を隔てた向こう側にある。

外界との接点として描かれることの多い窓であるが、ここでは曇りガラスであるため外の景色は判然としない。壁の後ろに閉ざされた曇った窓の存在に、目の前の社会とその実体の曖昧さ、それを受けてなお、窓の向こうへと真摯にまなざしを向けようとする作家の姿が重ねられる。

 

映像の終盤、窓の外では、夜に近づくにつれ時折明滅する車のランプが鮮やかに映える。日常の中でわずかな光も見落とすことのないよう、目を凝らし耳をすますことを絶やしてはならないという思いは、展覧会から半年が経過した今、より一層切実なものとなっている。

 

2016.6.5